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誰にも関係のないこと16

掃除の途中で昼寝をしてしまった。数年前は本当に体力がなく、身体が痛くて、毎日昼も夜も寝るしかなかった。悪夢に魘されながら。今は、昼寝をする時間は無い。動けなかった時間を取り戻すかのように、動いている。坂を登れなかったし、食器を持ちながら食事することも疲れ、歯を磨いただけで腕が痛くなるほどに、筋力がなかった。疲労の病気かと思うほどに何もしていないのに疲労していた。

やはり雨のせいで、草花たちが倒れている。ポピーもカモミールもバタバタと。チューリップの葉も黄色くなって半分雨に溶け出していて、球根を掘り上げた方が良いと思った。空いたスペースはどうしたら良いだろう?何も考えていなかったけど、放っておいてもエリゲロンが這い回りそう。ほとんど人が歩ける場所が無いので、人の歩くスペースにしても良いけれど、せっかく時間をかけて植物が育つ土になったところを踏みしめて固めてしまうのも勿体無い。

アシナガバチの女王はどこかへ行ったようだ。

歌の呼吸が身体的合致したら自分がちゃんと歌に乗ることが今日分かった。リズムじゃなくて、呼吸。リズムに乗ったら他人の歌みたいになる時がある。この感覚で、カバー曲を乗り切ろうと思う。何を歌えば良いのかと束の間また不安になっていたけれど、これで大丈夫だと思う。


昨日思った大切なことを反芻している。

恐いことはすぐ思い出さないようにしてしまう防衛本能、それを突き破る。
ガゼボからはみ出してぐんぐん枝を伸ばすキフツゲートみたいに。

思っているよりそんなに遠慮しなくて良いのかも。
少数派で目立つから、目立たないようにしてしまうのかな。
目立っていないと良いな。
もっと伸び伸びしたいから。
しかし、

出る杭は打たれるけど、岡本太郎が言ってたな。
もっと打たれる杭になれと。

自分が打たれるのは自分が強ければ問題ない。
人は打ちたくないけれど、打たれるのは良いのかもしれない。
私はまだ弱いということが分かった。

物足りなくて、ずっと完全燃焼したかったことを思い出した。
物事の結果より、いかに燃焼するかの方が、本能なんだろう。

男性のような自分。
その理由は分かっている。

今日は神経の不安緊張が起こったのでブルガリアンローズを付けた。
薬より薬。

女性のような自分。
バラの香りは女性にさせてくれる。

ジェーンバーキンとHermineも。

足枷を外して鎧を脱いで裸になる感じ。

 

誰にも関係のない私。

誰にも関係のないこと15
Hermineを聴いている。不思議な音楽。夢と家の家事が合わさったような。日常にただリバーブをかけただけかもしれない。私も最近はそうしたい。なんでも無い日常に、リバーブやエコーを。掃除が捗る。

2度目の洗濯機を回している。
誰かが宿泊するかもしれないので、シーツやタオルケット、枕カバーも。

数人分何かを作れる鍋には、1年前に作った梅酵素の余りが入ったままで固まっていて、それをお湯で溶かして流していると手がすべすべになって、勿体無いことをしたと思った。ついでに、冷蔵庫のものたちをゴミ箱へ。何も使わない。残ったのは、大体種と湿布とハーブ。前に、私の冷蔵庫の中は普通では無いことを人に話したけど、その証拠の半分を隠滅してしまった。

私はこの鍋で何を作るんだろうか。
カレー...?

カレーは毎日食べているので、作ってまでは食べたくはないな。

庭のガゼボの原種バラ"ロサ・フィリペス・キフツゲート"の太い枝にぶら下がるアシナガバチの巣をついに撤去した。その巣はただ下に落ちている。帰ってきた女王蜂が巣のあった場所で巣を探していて、申し訳ないと思う。下に落ちた巣の中の幼虫たちは、死んでしまうかな。キフツゲートの花が少しだけ咲いている。植えて3年目から咲くらしく、その花は今年初めて見た。蕾は房になっていて、花の重みで枝が垂れるととても素敵なんだろうなと想像する。今は枝は上へ向かって咲いている。枝は暴れ、既にガゼボには収まりきらない雰囲気。来年から覚悟しないと。イギリスのコッツウォルズにある庭園「キフツゲート・コート」では1本の枝が25メートルも伸びていたりするそうで。枝はもちろん1本ではなくたくさん出ている。

小屋の天井に穴が空いていて光が見える。昨日の雨で穴の下に置いてあったバケツの7分目まで水が溜まっていた。他の箇所からも雨漏りはするので、床は結構広く濡れていた。床の木がふやけているので、そのうち腐りそう。昨年自分で修理を試みようと脚立を登ってみたけれど、そもそも屋根のトタンが腐蝕していて、少し触れるだけでバラバラになる状態。カラスが屋根にドスンととまって壊れた。修理をするとしたら屋根部全てを一旦外してやるという大掛かりなものになってしまう。木材部分も朽ち果てて少し触るとボロボロと崩れる。

掃除を続ける。
誰にも関係のないこと14
雨上がりの朝、ゴミ出しの為に玄関の扉を開けると、むせ返える香り。満開のポールズヒマラヤンムスク。むせ返るという言葉に17年前を思い出す。古い友人が書いた詩の中の表現。当時は私は恋人だった。別れてからも仲が良すぎて、新しい友達が出来ないと思って、もう電話するのをやめると告げた十数年前のことなどを思い出した。毎日のように何時間も電話していた。色んな話をした。それを何年か続けたけれど、いつも面白く、話は尽きなかった。今は特に何も話さない。昔の話。つい先日会った。

今日は休みなので家を片付けたい。
それと庭のガゼボのアシナガバチの巣を週末までにどうにかしなければ。
雨の所為で、花たちもバタバタ倒れているかもしれない。

窓に日が差す。
一斉に生まれる感覚。

もうすぐ終わる、もうすぐ始まる。
それの繰り返し。

庭は久しぶりの雨を吸って、一晩で一段と成長しているに違いない。

私は水平線。

こうなったらいいなという淡い期待は全くと言って現実に起こらないけれど、同じことを少し強く思うだけでそれが現実として現れたりする。この一線。ここで時空が変わっていることには普段なかなか気が付くことが出来ない。見た目は何も変わらないから。

境界線。
それを超えていく人は面白い。

元気な子供達の声が聞こえてくる。山へハイキングへ行く団体がたまに家の横を通ります。

私は、家の片付けをしなければ。

人に見せたらダメなものってあるのか。
私は全部見たい。

小説の中のように、心、開いて欲しい。
めちゃくちゃでいいので。

そう言う私は、どこまで片付けて、どこまで片付けないのか。
それが今日の課題。
誰にも関係のないこと13
庭のバラ、由緒ある香水の原料になるバラ、ロサ・ダマスケナ・トリギンティペタラ。別名カザンリク。このバラはうちの20種類ほど植えてあるバラの中では、まだバラの季節ではない4月の一番早くに咲くバラ。それが今日5月20日に開花した。その訳はそのうち見つかる。1年前か2年前に一番良い場所に植えたつもりが、紫陽花やらクレマチスやらその他のまだ若い樹木の低い枝葉に覆われ、日陰でひっそりとして、強健なはずの生命力は感じられない。虫に蕾を落とされやすい品種でもある。そんなこんなで、開いた2輪をひとまずガラス瓶に保存した。

瓶の蓋を開けると、狭い空間に溜まっていた香りが飛び出して、庭で嗅いだときの何倍も濃厚な空気の塊が顔にぶつかるような、気体であるにもかかわらず物質に劣らぬ重量を存在を感じた。

胃が痛い。天下茶屋に来る日は、2〜3回に1回は胃腸が痛くなる。そんな中、レッスンと週末のためのピアノとベースの練習をした。練習はかれこれ長い間、日課になっているけれど、やっと板について来た感触。

相生通りの坂を登って阿倍野筋を南方向、ライフを過ぎた次の曲がり角で左折してからの道はもう5年以上、今は週2回通っていますが、その路地のお宅たちが大切に育てている季節の花を毎年眺めています。真っ赤なアマリリスの季節。瓢箪山の坂道でもお宅のアマリリスコレクションが庭の奥から表の人が見える通りの傍に並べられていた。元気一杯のアマリリスがいくつも横並びになっていて、毎年嬉しくなることなのですが、今日はそれではなく不思議な香りの方が気になった。

曇った煙たいバニラのような甘い香りが、路地を100メートル進んでも香った。変だと思い、試しに息を止めてみても香った。鼻から思いっきり空気を吸うと空気の香りしかしない。記憶の匂いを嗅いでいたのか。帰りもその道ではない別の道で一瞬だけ香った。知っている匂いだけど、分からない。

白檀の香りかも。私の煙草の香りにも似ている気がした。何かと何かがミックスされた人工的な香水のラストノートのようにも感じた。やはりサンダルウッドかバニラかベンゾインか。線香の匂いではない。小学生の時に集めていた消しゴムの匂いか、匂い付きティッシュの匂いにも似ていた。

道中、漂ってくる青々としたバラの香りはすぐ分かる。
木材屋の前も通って、生の木の匂いも吸い込む。
香りの中を自転車で素早く通り抜ける。

3冊目の先の全く読めない小説の奥さんが自分のように思えてきた。その他、私の脳内や暮らしに似た人物たち。自分に似ていると認識してしまうと、この先、話がどうなっていくかがちょっと怖いですが、リアリティは増します。

話がどうなっていくかはあまり関係はないかも。
アンリ・ルソーを思い出している。

天下茶屋から瓢箪山へ帰らないといけないのですが、身体が疲れ果てていて、久々動けなくなり、終電までの間少し横になって休むも回復せず、特に胃と背中が痛くて。胃が痛いのか、背中が痛いのかが分からない。胃と背中の筋肉と骨が全てくっついて硬直しているような感じがする。そうなのですが、瓢箪山へ戻るといつも元気になるのを知っているので、雨の中、苦しみながら終電に乗るために駅へ向かいました。

その駅前の大きな水溜りをどう避けて駅まで行くかをしている時に「帰りたい」「帰りたい」と口に出していました。一人暮らしが長い所為で一人の時は外でも結構独り言を言ってしまいます。声は雨の音でかき消されるし近くに人も居ない。誰にも聞こえていない。体の奥底から何かが湧いていました。体調と天候に歯向かって進んでいる自分を感じました。その私自身の生き生きとした意志がなんとも心地良く。

それと同じように、迷いや困難を突き進めば良い気がしました。

低く多くの燕が飛び交う瓢箪山商店街。
そのうち燕のくちばしが私の頭部に刺さるイメージ。
目だけはやめてほしい。

猫たちのこともまた書いておかないと。

今日の前半。
瓶に入れる時に触れたロサ・ダマスケナ・トリギンティペタラの香りが、天下茶屋駅に着いても私の左手から香ったのは刺激的だった。











誰にも関係のないこと12
Hermineを聞くと落ち着くのと同時に惹かれる。恋人のようです。不安定なピッチがそのままの自分を肯定してくれるような。少しのだらしなさも色気だと。開きっぱなしの引き出しを咎めないでくれたら良い。だけど、私は誰かがこの部屋にやって来たら引き出しを閉じるのです。そんな自分があまり好きではない。

綺麗な部屋の方が心地は良いけれど、汚い部屋の方が落ち着く。

晴れの方が心地よいけれど、雨の方が落ち着く。

カバンは横に置いた方が心地よいけれど、膝に置いておいた方が落ち着く。

雑草は抜いた方がスッキリするけど、生えていた方が落ち着く。何も生えていなく土が剥き出しでは、微生物や虫が生きられない。代謝が生態系が崩れて、土が痩せる。植物の根、枯れた上部も土にとって必要なものだから。

その辺りの味わいや真相を表面的な合理性や商業性などは置いていきがちなので、私は無駄なもの、何でもないものを何かと愛しく思う。

常に揺さぶられている。

昨日のライブの感想で「嘘のないところから出てくる歌」と言ってもらえていたことを人伝てに聞いて、すごく嬉しかったです。そうだとしたら良いなと思っているので。その為に思考したり、書くとも言えるし、その為にではなく、全てでそう在りたいという、昔からの私の私への願いです。

世の中は、特に、関係ないです。
誰にも関係のないことだけど、誰にも関係のないことは、誰かの誰にも関係ないところに繋がれるから、関係を持とうとするより誰にも関係のない領域の方が素直に伝わるのかも。そう感じていることもあり、誰にも関係ない領域で私は自分の真実を生きてみたい。

人を幸せにしたいから。

人には何もしないで、私は私のことをする。
1本の木のように。

そんなことを選択して、まだ間もないので、どうなるかは分かりませんが。
間違っていると気がつけば、方向転換します。
まだ40歳の若造だし、間違いはあるだろう。
死ぬまで間違いはあるだろう。

1本の木。

花が咲いて、蜂がやってきて、果実が実って、鳥や動物や人間も食べるかもしれない。土の中では蟻が家を作って、幼虫も長い期間を過ごす。根には微生物が。木の幹にもカイガラムシや熊蜂も穴を開けて子育て。根は土中で、微生物を通して他の木の根と会話する。みんなが心地良く生きれるように。

理想です。
そして森になれば良い。

心根だけで良い気がする。
そして自然に機能したい。

愛しさを感じていたい。
誰にも関係のないこと11
朝のゴミ出し。いつもは誰とも会わないのに、今日は近所の方々4人と遭遇。おはようございますの挨拶を交わした。挨拶は好きだ。あの木の前を通ってのゴミ出し。今朝は昨夜より濃厚な香りでまた夢の世界が戻ってきたような嬉しさ。数日後には消えてなくなるんですが。

うちの玄関のきちんと誘引していない所為で壁に屋根に枝が遊んでいるバラ"ポールズヒマラヤンムスク"は満開。散ってゆく折り返し地点。私にとっては咲いていようが葉だけだろうが愛しい。ぐんぐん成長する存在が愛しい。放っておいても驚異的に成長してゆく生命力の強さが私の支え。近くにあるものに、見つめるものに似てくるものだから、私は庭や太陽を側に感じたい。人間は強く優しい人を側に感じたい。そうなりたいから。

優しさについては、数日前に、月に1度ほど訪れる近鉄上本町駅の短いエスカレーターを下る際に思い浮かんだ。優しい人にも種類があって、本当の優しさは私はもうやっと分かっているつもり。どうだろう。

また家が散らかってきた。
デスクの引き出しは4つ開きっぱなしだったのを先日の来客時に少し閉じたはずが、今気がつけばまた3つ開きっぱなし。引き出しは全部で9つあって、3分の2はきちんと閉まっているということなので、まずまず悪くはないと思います。

昨日のライブを終えたなら、少し気分が軽くなるかと予想していたのですが、特に変わらず。やはり今週末のカバー曲と撮影が一番大変な山場なんだろう。練習と機材やセッィングの構想&段取りが頭の中で散らかり絡み合い、まだ収まるべきところに収まっていない。頭の中で音符とケーブルと人が絡み合っています。

私と歌を取り出すのを忘れないようにしないと。

昨日一気に3本のライブをやり遂げたけど、この3日間でライブ予定が新たに3つ増えた。
空いたら入ってくる世の中。

引力かな。

だから要らないものは捨てておいたほうが良いのか。

空いたまま空白を過ごしてみたい気もする。

誰にも関係のないこと10
1日にライブを3本終え胃痛。感謝したい人が多すぎて、感謝が間に合わない。

家までの山を登る時に香り続けている魅惑的な果樹の花の香りが薄まっている。これが寂しいという感覚か。苦しくはなくて、悲しくもない感覚。気に入ってたものが無くなるということか。香りが薄まって寂しいかも。取り憑かれてしまいそうな濃厚な香りだったので。でも、自分に入り込まなければ、ただ自然なことかな。

なんばパークスと難波ベアーズの間にあるヤマダ電気の街路樹が丁度咲いていて、同じ系統の香りがしていた。目立たぬ小さな花だったので香りがしないと気がつかなかったと思う。

都会の上、空の下で歌えて気持ちが良かった。歌詞を歌う時に思い浮かべている風景の中の「風」「海」「鳥」などがリアルにここにある感覚は、室内では得られなかったもの。それと、声を空の遠くまで飛ばしたいと思えば、天井にぶつかって音が反射することなくそのまま上に消えていった。それが私にとって嬉しいことだと初めて知った。

髪が乱れるほどの強風が海みたいで、気がつけば、また「海みたいですね」と言っていました。でも、丁度「海に聞く」という曲を演奏していた時だったので、今日は伝わったようでした。

私の古い友達たちの家族グループが数組、皆勢揃いで。まだ4歳のピアノの生徒さんが「歌がすごかった」ってぴょんぴょん飛び跳ねていて。それらが印象的でした。子供がたくさん居ました。子供に伝わる歌を歌いたいという想いはなかったけど、レッスンでは子供に伝わるようにと子供視点でやっているから、繋がりができていたのかも知れない。年輩の方たちもたくさん聴いてくれていて、そうして開かれた場を今、家の中からスローモーションで眺めている。

靴擦れを庇って歩いていたからか、腰と背中が痛い。

ショッピングモールには普段は行かない。ショーウィンドウの素敵な洋服たちを眺めて、着たいなと思ったけど、買えるお金はないからすぐ諦めた。

ライブとライブの間に、見に来てくれた普段からよく会い、よく話す人と二人で親しく喫茶店に入り、相手の話を聞いていると、相手と私は関係ないと考える方が不自然で、やっぱり関係あるのかな?と思った。

関係ある人、関係ある世界、関係ある時間。何時もではないけれど。

関係のある瞬間は確かに在ります。

背中が痛すぎて、思考は歪められそうで。
そんな時は、痛みが消えるほどの幸せを想像して、早めに寝る。
特別に許す。
誰にも関係のないこと9
先日の謎解きを進めるチャンスが来た。Cさんの右手が現れた。Cさんの右手は、Aさんの左手とBさんの右手とも違った。違う部分で、Cさんの右手とAさんの左手は似ていた。Bさんの右手とCさんの右手には共通点が一つもなかった。まだデータが少なすぎるので答えが出せない。Dさん、Eさんの登場を待つことにします。

庭のガゼボのロサフィリペスキフツゲートの枝の間にあるアシナガバチの巣を取らないといけない。今、3段目くらいまで建設されている巣。昨夜、一度格闘したのですが、懐中電灯の灯りが弱く狙い所を失敗し、夜にも関わらず、アシナガバチの女王が怒って巣の周りを飛び始めたのでその日は恐くて諦めました。次は日中、女王が巣の材料や餌を取りに外出している時を狙ってみようと思います。

3冊目の小説は、とても読み心地が良いです。燃えるようなどろどろとした赤と、透き通る水色、植物の緑と、色が私の部屋と同じで落ち着く。私の部屋の壁の様です。今日の電車の中で読んだのは丁度、蜂の大群についてのページだった。ライブ会場の難波に向かっています。

この本、好きだな。

物事を「言語」で整理せず、そのままの状態、または記号化して保存すると、日々、瞬間瞬間、思い出すことばかりが起こるのかもしれません。

大体の人間は「言語」で物を認識しているとのこと。このことを知ったのは15年ほど前。とある本に書いてありました。それにハっとした私はそれからはそれを思い出した時には物を言語では認識せず、もっと良く観察するようになりました。例えば白い紙の本当の色は白ではないのです。黄色や青やら色んな色が混ざっています。機械だと思っている物もパーツを脳内で原材料まで溶かすように逆再生すれば機械ではなく。そこまで行くと、地球上の全てが自然の素材から出来ていることに気が付きます。色は光の反射です。行きすぎると、元素、素粒子、波のようなところまでは行けるのですが、知識として知っているだけで、体感的では無いのでつまらなくなります。人間も同じくそうなので、個人の区別はなくなり、死も何でもないただの死になってしまい「人間」では無くなってしまいます。そして、その先へは行けないのがもどかしく、また社会や言語へ戻ったりを繰り返します。


庭で鳥が鳴いているけど、鳥は詳しくなくて、何の鳥かは分からない。
鳥自身も自分の名前を知らないと思う。

どこかのお宅が布団を叩く音も聞こえる。

シャワーを浴びていた時、シャワーから吹き出す水が私の頭部に当たって、耳の近くで鳴っているその複雑な水のぶつかりや流れは、先日ライブで聴いたノイズ演奏と大体同じ。だとか、そんなことばっかりの日常で。本当に誰にも関係のないことだな。

歩きながら書いています。

たくさんの人の中を通過していますが、誰ともぶつかりません。
誰にも関係のないこと8
レッスンを終え、電動ではなく普通の自転車で坂道を登りリハをするご自宅へ向かう。私は毎日坂を登っているけれど、ここの坂はキツく、そしてこの人通りの少ない閑静な住宅街でも、外国人に話しかけられる。話しかけたそうだなと察してこちらからも向かって行ったというか。ここは人が少ないので私に話しかけれなかったらその人はまた人が通るまでしばらく待たないといけないから。そうして、見せられた地図には番地も書いていなくて「眺望がいい」と日本語で書いてあった。そこに行きたいそうで。でも、迷路みたいな住宅街で私も自分がどこに居るか分からず、答えられなくて、ちょっと苦しくなりました。

この辺りの、さらに南側辺りは、私にとって子供の頃から不思議な物語の世界だった。神隠しに合いそうな、異次元を感じ取っていました。坂道で、夕陽を浴びるので、そう感じてしまうのはまた夕陽の所為かもしれません。

リハを終え、お宅の玄関を出ると、海のような風と木の葉の重なり合う音と空気で嬉しくなって「海辺みたいですね」と言ってしまって、相手には全く伝わりませんでした。海の無い天下茶屋では、子供の頃から1年に少しだけ海を感じます。梅雨時期、大阪港か、大正の川辺りからか、風に乗ってこんな遠くまで潮の匂いがします。ベランダからは海も川も見えないのに1年に数度だけ船の汽笛が聞こえていました。


惹かれている。
緊張と安堵が一気に合わさり来るような特殊な異次元感覚。
数ヶ月前からある人に覚える恋のようなものに対して、ちゃんと考えないといけないということを思い出しました。

私に出来ることと言えば、日常を継続することと、過去の図式を分解して新たに作り直すことです。
私がある人にどんな想いを持っていようが誰にも関係のないことだから。

5月が終われば、ゆったりしたい。

そんなことを考えていたら、駆けつけた際のライブで落語を見ることになり、遊郭での男女の騙し合いの話でした。落語はとても味わい深く面白かったけど、私は「騙し合いをするくらいなら純粋な想いを持ったまま死んでしまいたい」と思ったことはその場に居た誰にも言えませんでした。

自分の世界に閉じこもることは、死の代替えだったんだなと思いました。

白髪が増えたのを見て嫌になることも、受け入れていかないと。

誰にも関係のないこと7
昨夜の晩御飯でいつものようにいつもの納豆を混ぜていたのですが、今までと違い箸の動きが鈍くなるほどの強力な粘りで、味も濃く、そろそろ納豆菌が活発になる季節なのかなと感じました。庭の土で季節ごとのに移り変わる微生物に、米ぬかを餌として撒いて育てています。微生物が植物を育ててくれるから、庭の土ごと菌の力で発酵させると。大雑把に言うと大体そんな意味合いの本の知識ですが、それを実行して確かに3年目の庭は何もせずとも生き生きしているので、それを実感、信頼しています。

納豆菌の季節ということは、梅雨ですね。じきに梅雨がやって来る。山の匂いも変わる。

今朝から水道水の塩素の匂いもきつく感じるようになりました。水道局が塩素濃度を上げたのか?気温や空気中の何かの微生物に反応して匂いやすくなっているのかは分かりませんが、色んな菌が発生してくる季節には違いないと思います。

ダンボールから取り出した服の匂い、満開に近い玄関のポールズヒマラヤンムスクの香り、家の路地を抜けたところにある空き家の木の花の匂い…

電車で、3冊目の小説の世界を心地良く進み、乗り換えの日本橋駅で降りるためにドア付近に立っていたら、目の前の男性の白シャツの肩のところに、赤いテントウムシが付いていて、小説の世界と繋がっている感覚になりました。昨日庭でテントウムシの幼虫も見たので、大体なんでも、どこでも、繋がります。

この世はそれが当たり前な世界だけど、普段社会生活や活動に忙しくて気がついてないだけで、不思議なことだと認識してしまうのかな。そんな不思議なことは毎日1つ〜5つくらいあって、その数は私が見えている数であって、見ようと研ぎ澄ましたら、意識の範囲を広げたら、記憶を辿れば、もっと見えてくるのだと思っています。

実家での昼食、牡蠣入りのお好み焼きを食べ、牡蠣4つ目で耐えられなく吐き出し、牛乳で解毒。牡蠣を避けて残りを食べようとするも、牡蠣の居た場所の生地にも味が移っていて無理、そこも避けて、完食。レッスンを1つ終え、リハに向かう。リハ後はまたレッスンに戻る。