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https://note.com/naganokana

poemes d'un jour 276

このままここに書き続けるか、新たにはじめるか少し迷っている、私の記録。第二章のままだったか、第三章だったか、忘れてしまったけれど、人生の一区切り。


昨日ははじめての結婚記念日だった。


残りの人生で何をするかが明確になり、使う名前も長野加奈に変えた。辰巳家から脱出できたのは大きい。


一生懸命育ててくれた両親には申し訳ないけど、所謂毒親に違いなかった。幼少期から親の支配が強すぎて幸せをイメージしにくかった。負の感情ループを払拭するのに時間がかかってしまった。現実逃避ばかりの母には何を言っても伝わらず、35歳くらいの時にやっと伝わり理解してもらえたけれど、父は今もどうにもならず結婚も喜んでもらえなかったどころか「あいつ(私)はうちに一歩も入れさせん」「あいつには1円もやるなよ」と言ったりしていたそうだ。だけどそんな父とは家の中で会わないようにして実家でピアノ教室を続けている。父は私が小学生の頃にああ言った、こう言ったと昔のことを根に持っているそうだが、私はもう大分前から何も感じていない。何を言われても何も感じなくなってしまっている。そうしないと自分の人生を生きれなかったと思う。


だから、長野加奈の方が安定感を感じる、自由でスッキリした感じ。これからしっかり目を開いて堂々と生きれるような気がする。


私が自信があると言えることは、怯えながらも自分として生きてきたこと。人が、何もかもが恐くて流されないように立っていることだけしか出来てないけれど、これからは周りの人たちに感謝して動いていけそう。もう一人じゃないし。




人生これから。

またMujika Easelをやっていきたい。


過去はもういいやって思った。

音源は無料でYouTubeに開放しました。



他の作品もまた開放していきます。


新しく作っていた曲があって、アルバム分できています。あとは詰めていく作業とレコーディングです。音源で収益化出来ない時代となり、資金もなく、その辺りも悩んでいましたが、家で自分で録音しようと思います。出来たらYouTubeにフルでアップしようと考えています。


今までの作品のような音質など録音クオリティはなくなると思いますが、作品の中身は今まで以上に伝わるものを作りたいと思います。


そんな風にMujika Easelのことを考えていたら、今まですぐに老人になりそうなくらい速く過ぎ去っていっていた毎日が、長く中身が濃い時間のようになった。これこそと、生きがいを感じました。


あと、じわじわYouTuber活動も再開しようと思っています。心強くして、戦って行こうと思いました。




poemes d'un jour 275

もう一度、夢を描く。



とても幸せな日々を過ごしている。傘立てと切れていた電球をやっと買えて、収納や細々した掃除やら、二人で楽しくやっている。一緒にやるとやる気が湧くし、早くて達成感がすごい。それはそうとまだ誰も新居に呼べていない。コロナ中ということもあるけど…家がまだ落ち着いていない。


結婚してもうすぐ1年。最初はまだ理解し合えていない箇所もあり、お互いのことに関する話し合いも多くあったけれど、今はそれも特に必要がなくなり、家をきれいにするということと並行して、自分たちの新たな成長や社会との関わりという方向へ歩みはじめていると思う。家の中が快適になるごとに、外との繋がりを感じられる不思議。





今まで本当に長い間、自分の内部(トラウマや障害)の問題解決に力を注いで生きてきた。それは数年前に理論的には解決していたけれど、迷惑をかけないようにと人と深く関わらないようになっていたので実際のところ人と深く関わった時に自分がどうなるのかがあまりわからなかった。それが結婚生活をお互い幸せにやっていけているということが「私はもう大丈夫なんだ」という証拠である気がしてその確認作業もやっと終わったと思った。だからこれからはやりたいことを自信を持ってやっていきたいし、堂々と社会にも関わっていきたい。



そう、人生の残り時間をどう使おうか考えていたけど、何周か巡って、社会でやってみたいとなった。



そのために自分を客観的に見直していた。



今日、答えが出た。


余計なものは捨てて、新たな再挑戦。


あとは行動出来るかどうか。

もう大分考えたから、動かないといけない。



poemes d'un jour 274

うまく自分を調整できていない。


季節は混乱して、今がいつなのか分かりにくい。


庭のバラはいつ咲いていたか、今も咲いているけど、本当に咲いている感覚が薄い。たぶん、咲いたまま萎れているからだと思う。咲いているのか枯れているのか…。


雨や病気で蕾が固まったまま開かないものも。



現実の具体的なことをたくさん考えていた。捨てるものと残すもの。私はどんな人間か。結果、ピアノを弾くことになった。


そうなったばかりでまだ弾いていない。久しぶりに文章を書いているけど、とても自由を感じる。こうやって書くことがもしかしたら一番好きなのかもしれない。


誰に向けているわけでもない、現実も特に関係のない。ルールも自己も特に関係のない。




現実を生きるって大変。


感覚の世界に戻ろうと思うけど、何もしないで生きるのはしんどいから何かしようと思うけど現実で何かすると疲れるし、ただピアノを弾くのがいいと思う。


鳥たちの鳴き声が聞こえる。




今までやりたかったこと含め、がんばりを全部やめて、過去の片付けをしていきたい。長く続けてきたこともあるからなかなか決心は付かなかったけれど、身軽になってみたい。飛べるかもしれない。


もう少し疲れが取れたら片付け始めようと思う。


結婚という大きな変化があったので。



がんばればできるけどというがんばらないとできないことは他の人にやってもらうのがいいと思った。


全部自分でがんばろうとするのをやめる。やってくれる人がいないことは、勿体無いと人に言われようが、終わりにしたい。






poemes d'un jour 273
また忙しくて書けなくなっていた。
今日は最後の生徒さんのレッスンが急に休みになったので早く終わり、急に時間が出来た。





庭ではプルモナリアが咲いている。
毎年、早春に咲く、とても好きな花。

昨年、家の引越し時に、引越ししてきた庭の植物たちをなんとか植え付け、新しい苗を少し植えて、山部分に蔓延る笹を少し刈って…というところまでして夏になり、春同様植え付けが出来るはずの秋はろくになにも植えずだった。

冬の間にしなければいけない剪定とバラの誘引はぎりぎりやれた。
虫が出る前にと山の藪の整理もなんとか出来た。 

最低限は、なんとか出来た冬。






冬に家の横の山を登ってみた。

道がなくて帰れるかわからなかったけど、二人だから大丈夫かなと、とにかく上に登ってみた。



1番上まで登り切ると道に出た。
通りがかりの登山者に道を尋ねた。
地理がよくわかった。

道のない自然の山。
虫や蛇も居ない冬しか無理だったので、これも冬にやりたかったことだった。

とても静かな空気の中に鳥たちの声がしていた。






早春。

イングリッシュデージーをはじめて植えた。

前から育ててみたかったけど、苗が入手出来そうで出来なかった。

とても気に入っている。

毎年、植えたいと思った。



ただの草のスティパも増量した。

瓢箪山の時から毎年植えていたけど、毎年夏を越せなかったスティパ。塩屋の庭にも昨年数株場所を変えて植えた。成長具合はそれぞれの場所で違うけれど全て生き残り、さらに大きくなっているものも多い。これはとても嬉しいこと。

スティパが輝きそよそよ風に揺れる庭。

植物が輝くと光の存在を感じる、植物が揺れると風の存在を知る。



他にも色々植えたり、手入れをしている。
とても幸せ。


作業はほぼ一人でやってるけど二人の庭。
成長を見守っている。


今回の庭は、地に足がつくといいな。
毎年少しずつやっていきたい。


poemes d'un jour 272
疲れた。

疲れたら書きたくなるのかもしれない。

広い世界を求めて。


梅、水仙など咲いている。

庭の草木も芽を開き始めたり、まだ土の中のものもいる。


早くコロナ関連が終息してほしい、外で自由にしたい。

コロナ社会の世界観が窮屈。


それでも春を垣間見れる暖かな日は、気持ちが解れる。





垂水から塩屋まで二人で歩いた。



石畳みたいな岩の地面が夕陽でオレンジ色になって、海外の海辺みたいだった。

歩く感覚を味わった。



帰り、

はじめて通った道に八百屋を発見したり。

海辺の道路は、子供の頃の家族で車で出かけたファミリー感と、今ここに居る私たちという二人きりの家族がごちゃまぜになってもどかしい変な気分になった。


垂水から塩屋までは海辺が細長い公園のような散歩道で繋がっている。
木がたくさん、猫、鳥、たくさん居た。

ヤマガラとイソヒヨドリを間近で見れた。



最近、庭にメジロが来る。
たくさん来る。
丸くてとてもかわいい。
緑色もきれい。


レッスンで週4大阪に行くのが疲れてきた。



前回のブログを書いたすぐあとに、自分の人生を生きたいと思ったので、そういう方向で徐々に変わっていけたらと思う。
poemes d'un jour 271
山の整備をずっとしていた。

家の横が山なのに山も感じれなくなっていたけど、庭の階段を五段ほど登るだけで山だったことを思い出した。

この季節は虫も居なくて何も気にせず進めた。

細い道か道じゃないのかわからない道にはたくさんの落ち葉が敷き詰まってふわふわで、地面なのか崖なのか足で確かめながら進んでみた。

誰も入らない場所。

おそらく、数ヶ月か1年かもっとか、誰も入っていなくて、自然が作った世界。

木漏れ日や風と、そんな世界に感動した。


この前までは人を気にして奥に進むことは出来なかった。

私の山ではなく、私有地だから。

でも子供だったら山の自然が誰かの私物なんて思い付かずに思いのまま進むだろう。子供のころに祖母の家の裏山を自由に探検した。本当に楽しかった。

山はみんなのものでいいと思う。

でも自分だけのものにしたいかも。


誰も入らない山。


反対側の奥、竹林の方へも行ってみた。前はなんだか行き止まりに感じていたけど、ずっとずっと奥へ行けそうだと思った。


どちらも自然のままで、樹海みたいに迷子になりそうだったので、進みすぎることはやめた。前に道のない山を登った時、降りる道がわからなく日が暮れてきてパニックになりかけた経験があり…。

この先は今度2人で探検しようと思った。



山の向こうへ果てしなく空間が続いているかと思うと、気持ちが自由になった。


実際は違うけど、イメージの世界では私たちの山でいいと思った。


虫が出る季節の前に道作りをしよう。
道があれば、生い茂る季節も毛虫がつくかもとか気にせず気楽に山に行けるようになるかなと思う。


poemes d'un jour 270
ゆったり過ごせている。

昼に1時間昼寝をした。
いつもならあっという間にアラームが鳴ってただの時間の無駄としか思えなく、もう昼寝はしなくなっていたけれど、疲れたから寝るのではなく、ゆったり自然に気持ち良くて寝転がるという感じ。

たくさん夢を見て、たくさん体験した。
1時間が数時間あったような、私の求めていた心地よい感じだった。

寝る前に地球の太古の時代から今が繋がっているのを思ったのがよかったのかも。

長い時間と広い空間。

この時間の意識で昼間も過ごせたら、充実する気がする。

よく見てしまうスマホの画面は狭い、もっと広いフィールドと関わっているイメージを常に持てたら。

せせこましい世界から解放されたい。

最近はスクロールもゆっくりめにしている。



長い時を。

時間というものは一気に全て感じることができるような言葉にしにくい感覚。

所謂今を生きる…とかいうのはしっくりこないんやろう。


自分の過去は嫌なこと以外はわりと忘れてしまっているけれど、自分の過去が過去なのではなくて、世界の過去が過去で、その世界の過去を感じるのがとても好きだな。



久しぶりに自分の曲をピアノで弾いてみたら意外と楽しかった。

即興と鱗だけ。

弾きごたえのある曲を作れば楽しいかもしれない。



母のエレクトーン動画も撮影した。

その時に、カメラの中の不要なデータを削除しようと思って見ていたら、春や夏の新生活の写真があって素敵な思い出として迫ってきた。思い出は美しい。でも思い出じゃなく、また今年もそんな素敵な生活を作っていきたいなと思った。


いま、梅田駅を全ての人に追い抜かされていく速度で歩いている。
歩きながら書いている。



今日も座れなかったけど、上手くいけば芦屋くらいで座れるだろう。



庭には新たには特に何も植えていないけれど、春が楽しみ。
ひとまわり大きくなった姿が見たい。

poemes d'un jour 269
ゆっくり動く生活、無意識にまた速くなってしまってまたゆっくりに戻すことの繰り返し。

それでも以前は一瞬の隙にしかなかった自分自身と世界を味わうということが数分、数十分に増えた。

計画と予定が長い糸のように永遠に連なっているから、進むためにただこなしていくという感じだった。ただこなすことも大変で脱落しないようにそれに必死になってしまい。


昨夜帰り道。
駅前の居酒屋などが軒並みコロナの営業短縮で道は真っ暗。

ゆっくり歩くので一緒の電車から降りた帰宅を急ぐ人たちにまたどんどん追い抜かれてすぐに一人ぼっちになった。


その時にどんな生き方がしたいか改めて考えてみようと思った。

ぱっと浮かんだのは自分のままで個性的に面白く生きたいなということ。

誰もいなかったので、左回りに回りながら山道を登ると身体の感覚が変わった。まだ人が居なかったのでまた回りながら、次は右回りにして変化を感じてみたり、後ろ向きに登ったり、立ち止まって星や街を見たり…

人が居たらこんなことできない。

居なくてよかった。

それが昨夜の本音。



そんな自分を受け入れることにしようと思う。



何かを伝えたいとか表現したいというより、そうやって好きな時に好きなことがしたい。

思い付いたらすぐやってみたいだけ。

考えとかはあったとしても後付けだし。



しばらく本音に応じて、自分とフィールドの世界と家での2人の世界がいいかなと思った。思い付きだからまた変わると思うけど、その時その時の自分に素直になるなら、TwitterとFacebookはやめようかなと思った。すでに他の人の投稿は見れていないけれど、見れていないと罪悪感を感じてしまう。あとは、投稿したらフォロワーが減ることが多く、正直そのたびに傷付く。なぜ勝手に見ていた知らない人が居なくなっただけで傷付くのか自分でも分からないけど、そもそもSNSの世界観や当たり前が自分には合わないんだなと思った。


この頃特に昭和の世界観が好きで思い出すことが増えている。

昭和、平成、令和…
昭和がとても好き

だから昭和っぽい生活にしてみようかな。

昭和53年生まれだから、その前の昭和は知らないけど。


自分自身は子供の頃は辛かったけど、社会の雰囲気は好きだった。人もみな思ったことを発言していて個性的で面白い人いっぱいいた気がする。

若かっただけかもしれんけど。

なんかとりあえずもっと面白い人生歩みたいと思った。


だから自分でまた工夫して毎日生き生きする世界を感じたい。
体感を。


敬語をやめるとかもいいかもしれない。


ありがとうございます。
お手数をおかけしますが。
承知いたしました。
申し訳ございません。
お気遣いありがとうございます。
失礼いたします。
よろしくお願いいたします。


これだけでしか会話していない気がする。
メール時代だから。

このままだと人との会話はほぼこれだけで人生が終わってしまう。

そんな馬鹿な…
poemes d'un jour 268
ゆっくり動く生活。

昨日は起きた時に身体の痛みがなく、朝の目覚めもスッキリで朝から山に植えられている桃やイチジクの剪定、絡んだハヤトウリの枯れた蔓の除去なども出来た。

イチジクは通路間際に20本ほど植えられていて、迫り出してきた枝葉でかなり通りにくかったので、来年の実は諦めて樹形作りからやることにした。低く作るのが一般的のようだけど、下は日陰だし人が通るので、まずは上に伸ばそうと思う。上手くいくのかどうか。


文字を打つスピードも、もっと落とした方が呼吸が楽になる。


人との社会で結果を出すためには、早く動かないといけない。人の半分のスピードで動くと人の倍時間がかかる。単純計算ではそうだけど、まあ倍はかからないと思うけれど、速い方が有利には違いない。

でも自分の体感の時間が長くゆったり味わえるので、自分にしか分からないけれど遅い方が濃厚な気がする。

うさぎとかめの童話やな。


この世は全てバランスだと思うので、ゆっくりも素早くも都度出来たらいいんだろうと思う。

今はゆっくりじゃないと息が詰まるから、ゆっくり生きよう。


何か特別うれしいことがあるよりは、身体が痛くないだけの方がそれだけでかなり幸せ。

痛くなくなっても忘れないようにしたい。





レッスンが終わった。

背中と胃が痛い。

レッスン中はゆっくりは出来ないな。
せめて呼吸をするように心掛けよう。


ゆっくり歩くと夜道が怖い花園町…

生まれ育った場所が治安が悪かったので、早く歩くように、いつも緊張感を持つように、身体に刻み込まれているのだと思う。