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poemes d'un jour 244
本日、長野雅貴さんと入籍しました。











私たちは今までと何ら変わりないけど、公の関係になるってことなんや。

なので、皆さんの反応のおかげで、結婚したんだなって感じられる。

人付き合いはなかなか億劫な私ですが、雅貴くんを通して、自分も変化していく気がする。

何より、祝福してくださる皆様のおかげで、気楽に、幸せな気持ち。
ありがとうございます。



ようやくここまでたどり着いた。
作り続けることが大切だなって思った。
作品とかだけの話ではなく、家や庭、関係、自分自身の何か。
すぐ完成して終わりじゃなくて、ずっと取り組めるものがあるのが幸せやな。


作ることが愛の行為なのかな。
見続けたい、見続ける。


大勢の役に立つ人間じゃなくてもいい。
まず、たった一人を幸せにしたい。
それだけでも、十分やなって前から思っている。
それだけでも、すごいことやなって思う。


私は姓が変わったけど、呼び方は今までと同じでもどっちでもいいです、
これからもどうぞよろしくお願いします。



poemes d'un jour 243


青いアジサイ、いいな。



水色のアジサイもいいな。



自然界は毎日変化が起こる。
だから安心する。

空気の流れ、気の流れ、時間の流れ、

朝の鳥の鳴き声に耳を傾けると興味が尽きなく、それだけで1日が終わってしまいそう。

今日はレッスンで西田辺まで行ったけど、途中の道に、ムクドリの集団が止まる街路樹があるのは知っていて鳥たちが騒いでいたけど、少し離れたところでは何種類かの他の鳥の声も聴こえた。今までは聴こえなかったのに...。街中にも鳥は結構いるんやな。道路の車などの音でかき消されている分はあるにも、それより耳が注目していなかっただけで、居ないと思い込んでいたんだなと思った。

先週か先々週か、同じく西田辺の地下鉄御堂筋線が通っている上の交通量の多い道路脇の街路樹で、一羽の(おそらく)ムクドリが土の中からコガネムシか何かの幼虫を捕まえて咥えていたのも目撃した。その時、ちょうど毛虫を食べてくれる鳥を調べていて「ムクドリが食べるんやー」と分かった直後で、まさか街中ですぐにその現場を見れるとは思っていなかった。

自分が注目するかしないかで、世界が変わる。

それは前から知っているけど、鳥の件で、体験としてとてもリアルに実感した。


好きな世界を作る。


世界が社会がどうであれ、私は自分の思う楽園を作ろう。


少し晴れが続くので、仕事前、休みの日は庭仕事。

鳥の声を聴いたり、虫を観察しながら。

それだけで精神的には本当に生きていけるなって。

色んな鳥や虫や山の木の名前、分かるようになりたい。
数年間かかるやろうから、その間、多分、ずっと楽しい。





poemes d'un jour 242
久しぶりに書く。引越しをして1ヶ月以上経ったけれど、新しい自分の部屋の椅子に座ったのは今日が初めて。季節は待ってくれないから先に庭仕事などをやっている。植物たちも一緒に引っ越してきたのでなるべく涼しいうちに植えてあげないと。まだ終わったわけではないけれど、6月中には植え付けが終わりそう。だから少し気持ちが落ち着いたのかもしれない。

今日は雨がたくさん降った。
雨の日は家が雨音に包まれて孤立した島に居るような心地。
ピアノを弾いたり、音楽を聴いても、近所を気にしなくていい。
だから、ピアノを弾いて、音楽を聴いている。

スクリャービンのプレリュードOp.11の1番、2番、13番、18番、22番、24番を少しずつ練習した。

今書いている、自分の部屋には、大きなアシダカグモが居る。
蜘蛛は益虫だから、共存することにした。





6月の花嫁になる。

書類などを準備中。
一緒に暮らして1ヶ月半経つけど、自然すぎて実感がない。

苗字が変わるのは実感が湧きそう。

こちらの街では、既に奥さんと言われている。
長野さんですかと言われたら、「いえ、辰巳です」と言ってしまう。
あとで「(ああ、長野でもよかったのか...)まだ辰巳なんです」と言っている。

まあ、どっちでもいいけど。


ご飯や家事も大体半々で、仕事が休みの人または疲れてない人がやるという感じで、フェアな感じで良い。

野菜を育ててご飯に使う。
半自給自足の暮らしは既に出来つつある。
早い!
大家さんが色々植えてくれていたから。

二人暮らし、特に問題なさそう。
何でも心から協力し合っている。





住んでいるのは山だけど、駅が海のすぐ側にあるから電車の窓から写真を撮ったらこんな感じ。
駅から徒歩10分くらいなので、海も山もあって、毎日色々感じれる。

海風、山風。
潮の匂い、山の匂い。

書きたいことはたくさんあるけど、何から書けば...という感じなので、とりあえず、何でも良いからまた毎日書くようにしたい。





鳥がたくさんやってくる梅雨。
庭の藁をついばむスズメたちが本当にかわいい。

少し近づいたらすぐに向かいの家の屋根の上に避難して、少し離れたらまた庭に降りてきて食べている。

それを二人で一緒に見ているだけで、何とも幸せだなと思いました。



久しぶりに自分の部屋に居て聴いた音楽は、ピアソラとバッハだった。
バッハもまた練習したい。
poemes d'un jour 241
自分に出来ることはなんだろう?



瓢箪山の庭の方、引越しのため、土に植えてあるものを掘りここして鉢上げ。すでに土の中にどこまで広がっているかわからない根を掘り起こして小さい鉢につめなおすのは、結構、気疲れする。それでも先日、長野さんに手伝ってもらって玄関のモンスター級のバラ「ポールズ・ヒマラヤン・ムスク」を1株、鉢上げ出来た。枝の処理と根を合わせて合計2時間はかかった。

土や草木に触れている人を見ると安心する。

続き、あと2週間、一人でやらないといけない。気が重い。気が遠くなる。

バラの蕾も出てきた。




自分の小さな人生に集中したいと思ったけど、やっぱりどこかで人の役に立てたらいいなという想いも湧いてくる。ただ、何が出来る訳でもなく、無理してするとおかしくなるとも思うし、待つ。

まず、健康になろう。


あと本当にオンラインレッスンなどを考えないといけないかもしれない。コロナ自粛が長引く可能性がある。

塩屋の家は心地のよい窓辺にピアノを置こうと思うので、そこでなら気分が乗りそう。



ただ、まずは、今は何もかもほっぽらかしても、引越し作業をせねば。




仕事が一番じゃないということが分かった。

一人暮らしだと、家より仕事を優先せねばいけない感覚に襲われるけど、家族が出来たら家庭を一番に優先していいんやな。本当は一人暮らしでも、家を優先してもいい。自分がそうしたいなら。そういうことを思い出して行ってる。

と言っても、心持ちとしては、ピアノレッスンを仕事と割り切らなくても良くて、来てくれる人が居て、自分も楽しかったら良いんだと思う。分けなくて良い人生が良いな。

塩屋の家でピアノ教室はしたいです。瓢箪山でも最初やろうと思ったけど、坂がきつすぎるのと、女の一人暮らしなので、怖さもあり、部屋の感じも...和室だし、踏み切れなかった。そういった面で、塩屋はなんの不安もない。ピアノがアップライトなので、天下茶屋の方が本格的に教えれるのですが、塩屋では趣味の方を中心に、庭を含めた何かを出来たら良いなと。庭でお茶を飲んで帰れるとか、苗も買えるとか...そういった自分自身にあるものを...。


そのまま。


そのままを仕事に出来たら良いな。

全部そのまま。


YouTubeや音楽も。

もう需要とかサービスとか戦略という風な考え方はしないようにしようと思った。

引力で、やってくる人だけでいいんや。






そのまま。

引力で。



頑張ってお金を稼ごうとしなくていいんや。

今月は収入が0だけど、
なんとかなるやろう。

いつもなんとかなってきた。


少しずつ考えていきたいと思う。
楽しそうなこと。
poemes d'un jour 240
(4/6に書いていたもの)

桜も咲いて、春。少し寒い。瓢箪山の庭仕事と、塩屋の庭仕事をやっている。どちらも大変で、間に合うのかどうか心配だけど、やれば終わりが少しずつ見えてくる、心配が減ってくる。



昨日は二人で塩屋に行った。着いたら大家さんが山の部分に居た。山の土が肥えてるから、庭に降ろしてくれていた。大家さんはすごく気さくで友達同士のような感覚で話してくれた。海の男、山の男というようなワイルドなおっちゃん、庭にあった大きな流木やら石やらは海から拾ってきたとのことで、すごいなって思ったけど、少し離れたところのマツの木も「海が見えるように」と木登りして剪定してくれたらしい。「それでいいのか?笑」というその大雑把な切り方は見てて楽しい気分になった。




素敵な笑顔。それだけで幸せ。私が少し疲れやすくなっていることもあり、今回も重い石の移動など力仕事は全部やってくれた。次の日も身体疲れてないって、すごく頼もしい。

家族感、出てきた気がする。

二人家族。

目の前の一人を大切にすることなら、できそうな気がする。
一人しか居ないから優先順位とか迷わなくて良いし。


ややこしいの苦手やねんな。


盲目になれたら幸せなんやなって最近感じた。
大人になって、冷静な物の見方に頭が支配されることが多くなって、楽しくなくなった。
大人なんだからいつでもできる限り正しく存在していないと...とどこかで思っていたみたい。

歌うときも、もっと盲目になって歌えば幸せなんやろう。
もうまた今の自分はあまり歌いたくない。
世間の色々で気が散って、歌う気がしない。

自分の人生に集中するのが良いなって思う。

小さな暮らしを。


塩屋の街は、町の人同士がみんな知り合いみたい。食堂へ行けば、入ってくる人が皆、先に居る人と話していた。年齢問わず、友達同士のように冗談を言い合っていた。大家さん周辺では、物々交換、要らないものを誰かに譲るなども行われていた。この街だけで、成り立つというか、万一お金がなくなっても、きっとしばらくは生きれる感じだなって思った。近所の人が野菜をくれたりしそうだ。先日、財布を忘れたときも、コンビニのおばちゃんがコーヒーをタダでくれようとしたし。そんな街なんやな、多分。


瓢箪山のbar HOWS周辺の感じと似たようなところがあってなんか嬉しかった。






poemes d'un jour 239


新しい家の庭仕事に二人で行った。

庭が大量のよくわからない物で埋まっていて、片付けないとうちの植物たちを持っていけない。

大きな切り株(十数個)とか大きな石とか容器とかオブジェのような物とか、ベンチとか、流木とか、その他、大きな鉢植えが転がっていたり、クリエイティブな感覚とゴミの不法投棄の中間のような...とにかく植えるスペースがほぼない状態で1日中二人で作業。たぬきの置物もあった。

とりあえず、土に埋まっていたものは全部取り出して、整理できた。

自由にしていいって言われたので、全部作り変える。




庭と山が繋がっていて、庭の上の山スペースも探検した。道を進んでいくと、竹林に出た。誰もいない。自分たちの庭から通じている場所。ダイナミックで鳥しかいない。癒された。

庭の上はヤブツバキの斜面でたくさん生えていた。
新たに植えたいけど、スペースないよな...と思っていたレモンの木も既にあったので嬉しかった。テッポウユリもあったから、こっちのをわざわざ抜いて持っていかなくていいなと思った。




新しい庭も家も物が結構あって、新居のために買い足すというよりは、要らないものを持って帰ってもらうという感じ。椅子も10個くらいあって、扇風機も3つもあった。縁側のベンチも3つあって、バーベキュー台とか炭とかもある。大きなシャベルも脚立もホウキも3つくらいずつある。庭の水道も2つある。冷蔵庫も食器棚も立派なものがある。

なんかわからないけど、すごいある。

買わないといけないのは、無いかもしれない。

買うのは腐葉土とスキマテープと虫取り網かな。
蚊取り線香はある。

虫対策をという感じ。

ここはピアノ室にする、ワクワク。




長野さんが野菜好きなので、一緒に野菜も作ることにした。
二人の庭やな。
それが嬉しい。


家の壁の色も、一部すごい色で...おとぎ話の家みたい。
正面は普通に白に塗り替えられている。

家は木とバラで囲む計画。
次こそは。
poemes d'un jour 238


新しい家の本契約とこっちの家の解約の連絡を終えた。

どんどん芽吹いて成長する庭を眺めながら、植木鉢を洗ったり、小屋を片付けたりしている。



私の庭。
瓢箪山の。

この壁も気に入っている。
家の横がずっと壁なんだけど、バラを育てる私にとっては、こうしてどこまでも這わせれる面積があることにワクワクした。


数メートルに伸びたバラの枝やフジの枝を切らないといけないのだけど、もしかしたら引越しまでに開花が間に合うかもしれないと思うと、一目見たくて、先延ばしにしている。まだ蕾も出てないけど、どうかな...。どこかで見切りはつけないといけない。

これまた気持ちの整理が必要。



プルモナリア

美しい青。



作業量が多いので、すっかり早起きになった。
よく動くからか、鎖国したからか、身体も痛くない。
朝起きた時だけ痛いけど、動き出せばすぐ治る。


作業を続けよう。



poemes d'un jour 237
静かな家、瓢箪山。

庭を見たり、ゆったり過ごして、回復した。

ちょっとしばらく、世間の空気は感じないでおこう。



シェードガーデンのイカリソウ。


庭の植物「これ何?」って聞いてくれて、私が小難しい植物名「ロサ・フィリペス・キフツゲート」とか「ロサ・ダマスケナ・トリギンティペタラ」とかを言うとメモしている長野さん。興味を持ってくれるだけでもうれしいけど、庭一緒にできるんやな。その時はまだ感情が薄かったけど、今になって、とてもとても幸せだなと思った。


新しい庭の設計図を見せたり、雑木の理論や管理法、無農薬バラ栽培の考えなど、山と虫や鳥など生態系の共存など根本的なところから説明した。どこに何を植えるか、決めれない部分、一緒に考えてくれる。


長年一人でやっていたけど、一緒にやってくれる人、前から望んでいた。自分的にはただのガーデニングじゃなくて、生きるモデル、思想?夢?よくわからないけど、庭は大事なこと。


今の庭もかっこいいって言ってくれてめちゃ嬉しかった。
自分は見慣れてるし、最近手入れしてなかったので、こんな庭ダメだと思い込んでいた。でも、過去の春や夏の庭の写真を見たら、自分でも素敵やなって思えた。

もう新芽が生き生き芽吹いている。



バラ、マーシャル・ニールの蕾。
早い。

マーシャル・ニールは、東京、千葉と植えていた。レモン色の項垂れて咲くバラ。葉も美しく全てに惹かれる。愛犬リタニとの思い出。このバラはリタニっぽい。思い入れがある。ベランダまで伸びていたのに切ったのは悲しかった。でも、瓢箪山でまた植えた。


「みんな、次の庭へ引越しするから、移動でちょっとストレスかかるけど、がんばって。」


植物たちに語りかける気持ち、舞い戻った。
それが幸せ。
植物と繋がる。

もっと庭の世話をしようと思う。

とすると、何かの罪悪感が...。


だけど、


庭という存在以上に大事なものはない。
家も大事だけど、庭がない家では鬱になって死んでしまいそう。
生き甲斐以上なんやな。


共生。

手入れしてなくても、その側にある存在が。


もっと植物に時間を使おうと思った。



自分だけの庭だったから、それしかやらないのは、社会に不参加すぎて、閉鎖的すぎるかなって後ろめたさがあったけれども、そうだとしても、それでいいんやなと思った。誰にも期待されてないけど、やりたいから。それに、これからは一緒に共有してくれる人が居るから。


家の横の山にも植えれるかもしれない可能性が出てきた。大家さんが山にブルーベリーを植えているらしく...ということは山にも植えてもいいんやなと...。ブルーベリーどこに植えてあるのか、探すの楽しみ。

庭と山が繋がる。
イメージが広がる。

自分の庭がどこまでも続いているような錯覚。




コナラのドングリが自然発芽。
一緒に見つけた。

2つ発芽している、育てよう。
塩屋に植えよう。



poemes d'un jour 236
ただ生きていくのは辛い。

夢が現実となって夢の分量が薄まる。
それは辛いことなのかもしれない。
夢は叶っていくので、夢を増量しないと。

夢があれば、生きるも、死ぬもどちらでも充実する気がする。


自分がよくわからなくなっていた8年ほど前から、進むために「自分は何がしたいのか」と自分に問うてきた。今の自分がさっぱり分からなかったので、過去の自分から探ったり、なんでもやってみたり、結構大変だった。


今、愛する、愛される。

そこから、さらに一歩深く、もっとリアルな「今」思うことは、「未来を楽しみに思うこと」が必要なんだなって。「未来」のことばかり考えて「今」を感じれないのはバランスがよくないと思うけど、「今」に「未来」が含まれているので、つまり、「今、脳内で未来を想像すること」「イメージを楽しむ」ことが私にとって大切なんやなって。

現実の分量が多すぎて、疲れてしまった。


現実に直結している未来「予定」じゃなくて=遠い未来「夢」というものを持っている状態が大切なんやなって。

叶うか、叶わないかは、もしかしたらどちらでも良いのかもしれない。


「現実」は、身体が痛くなければ、幸せです。

結構やっぱり常に身体が痛くて、他の色々をもっと感じたくても「今」痛みしか感じられない。
痛くない時もあって、痛くない時は、とても幸せです。

身体の痛みに勝ってくれるものは、「太陽の光」「優しい声」「笑顔」のようなもの。
なので、身体が痛い時は、それ以外のものは、受け入れる余裕があまりないのかも。


電車に座ってても、隣の人が居なくなっただけで、身体の痛みが消えたりする。
精神的なものなのかな。
でも、物理的な「気」のような気がする。

精神はいつでも大体安定している。

服もダメだし。

壁がダメなんだろうな。

壁があると、肌が肉が空間に生き生き出来ないんやろうな。



外と、自分の家が好き。


家の窓を開けれて、光と風が入ってきたら幸せだなと思います。
植物は光で成長し、風で揺れるから、それを眺めているだけで、庭で生きていてくれるだけで、自分が安らぐ。

人も、光や風を感じて喜んでいる人を見ていると、安らぎます。


そよぐ木を植えよう。

狭くて湿度の高い日本では草原は無理なので。

木だなって思う。

管理が大変だけど...。

バラの香りもとても安らぐ。

肩こりが消えたりする。



やっぱり、まず、家と庭が重要やねんな。
私は。


グッゲンハイム邸みたいな、天井も高くて、ドアも大きくて、全部が日本サイズより大きい家、いいな...。
子供の頃は、自分が小さかったから、日本サイズの家でも、そんな感じの体感だった。

それがとてもよかった。
poemes d'un jour 235
春になって、ウグイスが鳴いて、私がそれを聴いて、私はそれをここに書いて、読んだ人の誰かが何かを思って、その人からまた他の人に何かがと、日々は続いていく。


曇りだけど、ウグイスの声の響きが空間を突き抜けていて、解放される。

下の空き家の野良猫3兄弟もよく姿を現すようになった。
毎年、世代交代しながら、3匹くらい生まれている。
みんな模様が違う。
今年は1匹、外国の血統書付きみたいなふわふわのがいる。


引越し見積もり、庭の木の根巻き&植え替え見積もり、昨日はそんな日だった。

庭も、一応、全部持っていけることは分かった。



木っていう生き物。
どう捉えたらいいんやろう。

育てている植物=愛着
風景、家の遮熱、木材=利用

野菜も育てたら食べるし、殺すと言えば殺す。

命をありがたく戴いている。って人間は(勝手に?)思う。

家具や家も木で出来てる、ありがたく使わせて戴いている。

必要ならば、他の命を断つのは仕方ない?

だけど、次の家に引っ越すから、そのあとに住む人に迷惑になるから切って出ていくという理由はどうなんやろな。



勝手な考えかもしれないけど、
衣食住だけが「必要なこと」ではなくて。
私には木を植えることが必要だった。
木の生命力を感じて一緒に生きる。

コロナによるライブハウス自粛の流れも同じく、必要のない人には、必要ないのにって言われるけど、必要な人には必要。身体が健康なら生きていけるというのではなく、心が不健康で自殺する人もいるように。


気がつかないほどの小さな生き物は、殺しても心を病みにくい。あとは正当化されている「切り花」「害虫退治」など。逆に、人間や犬猫を殺せば、心は病む、非難を浴びる。

命は同じだと思うけど、心を通わせているかいないかの違いかな。

結局、悪いように言えば自分勝手となるし、自分を中心に物事を考えること、それが自然とも言えるかな。生存競争的な本能...。



自分の好みと次に植える場所の条件などで、持っていくもの、伐採していくものを決める。

当たり前ではないので、自分の意志や気持ちをはっきりさせないと出来ないなと思って、書いている。



今、もう1社、引越しの見積もりが終わった。
決めた。

家荷物(エアコン作業も含む)と、庭の植物でトラック2台、税込9万円。結構かかったけれど、どの引越し屋さんでも、塩屋の町には引越しトラックが入れなくて途中から赤帽や軽トラを呼んで来て追加料金がかかる可能性があると言われ、気持ちが不安に。山なので、さらに道から家に着くまでに階段もあるし。それで、不安を解消すべく追加料金なしでやってくれる所にした。人力作戦でやるらしい。

今日の業者さんの人、先日、塩屋の旧グッゲンハイム邸の近くの引越しを担当したばかりらしく、トラックが全く入れなくて、ぐるぐるして、結局追加料金もらったとのことで、話が早く通じてよかった。

人力作戦。
大変だと思うけど、頑張ってほしい。
なんとかなってよかった。



木とピアノはこれとは別で運ぶので、引越し料金総額は20万円を越しそうです。
消費税が高いな...て思った。
引越し祝い(結婚祝い?)を貰えたので、なんとかなった。



いつでもなんとかなるものだ。

なんとかなるよ。



明後日、塩屋の旧グッゲンハイム邸でライブです。

時の流れの中で生きている。